県独自の緊急事態宣言が空けるのと時を同じくして、ぐずついた天気の日々もようやく終わりを迎えた。ゆっくりと時間が取ることができずに昼食は軽く駅そばを啜り、足速に取引先とのミーティングへと向かった。道中厳しい日差しに苛まれながら取引先のビルに入ると心地よい冷房のおかげで首元の汗がぴたっと止まる。気心知れた担当者が冷たいお茶を用意して待っていてくれた会議室で持参した企画を滞りなく提案し終えると、場の雰囲気から良い手応えを感じ取ることもできた。ミーティングを終え担当者と雑談をしていると、どちらともなく一杯ひっかけに行こうかという話になり、会社に直帰の連絡を入れてすぐさまタクシーを呼んだ。久しぶりの会合ということもあり運転手との愉快な四方山話も手伝って気持ちも高まり気分よく目的地に到着した。
民家の佇まいに年季の入った赤提灯が並び「や」「き」「に」「く」「は」「る」「や」と一文字ずつ温かみのある明かりが我々を出迎えてくれている。外観から溢れ出る当たりの予感を噛み締めながら色褪せた暖簾をくぐり店内をぐるりと見渡すと、既に何組かの先客があった。鉄板を囲み雑談を交えながら肉をジュージューと焼く姿が何とも微笑ましい。都会に比べればたった数週間の短い緊急事態宣言ではあったが、こうして人々が会話を交わして食事をする姿が何だか懐かしく思えた。これこそが本来のコミュニケーションだ。デジタル化の隆盛のおかげでオンライン飲み会やリモート会議が容易にできる世の中ではあるが、やはり生身のふれあいには敵わない。日課である風俗店通いもそれが一番の理由なのかもしれない。
年季の入った框を上がり座敷に腰を下ろすとすぐさま生ビールを注文した。床からオレンジ色のホースがテーブルのコンロまで伸び、小さな鉄板にはストライプの穴が何本も空いた昔ながらの街焼肉のスタイルが目の前にはあった。何十年とこの場所で多くの人々に美味しい焼肉を提供し続けてきたであろうこのコンロには威厳すら漂っているようだ。やおら運ばれてきた生ビールをぐびっと喉に流しむとスルスルと緊張の糸が解れ出し、連れの担当者の顔も一気にオフモードに変わっていった。一通りメニューを見渡しキムチと数種類のお肉を注文すると、まずは白菜キムチとカクテキが運ばれてきた。程よい酸味とピリッと効いた唐辛子の塩梅が素晴らしくすぐに自家製だと気付く。続いてタン塩、ハラミ、豚バラ、ホルモンがテーブルの上を彩る頃には、鉄板の温度もちょうどよく熱せられていた。タン塩を二切れ綺麗に並べると食欲をくすぐる魅惑の音を奏でながら辺り一面に香ばしい香りが広がる。程よく焼き上がったタンをたっぷりのレモン汁に浸して口に含む。爽やかな柑橘の香りと耽美な弾力の食感が口内を愛撫する。同時にジョッキを傾け残りのビールを飲み干すと言い知れぬ満足感が全身を柔らかく包み込み、当たりの予感は確信に変わりつつあった。
おかわりの生ビールを注文し、ハラミと豚バラを鉄板に乗せていく。やはりこの細長い穴が空いた鉄板で焼く肉が美味しいことにつくづく思い知らされる。肉から出た油で肉を焼く鉄板焼きの長所と余分な油は下に流れる網焼きの長所の見事な融合は無煙ロースターなど全く敵わない。ガツンと刺激的な味付けがされたハラミは上質のしっとりとした肉質で決して焼肉チェーン店では味わえない代物だ。豚バラに於いてはもはやカルビを凌駕するほどの旨味をしっかりと携え口の中を肉汁と多幸感でいっぱいにさせる。空になったジョッキを店員に渡し、麦焼酎のボトルと水割り梅干しセットを注文した私の意中はもう皆様がお気付きの通り、当たりの予感は確信に変わり再訪することを心に誓っていた。
お互い腹の具合も落ち着き、焼酎の梅干し割をちびちびやりながら仕事の話や近況の話、おすすめの情報交換と会話はつながり、たまにホルモンの焼ける音に耳を傾けながら杯は重ねられ久方ぶりに外で過ごす夜に心身共に満たされていく。ホルモンから溢れ出る油を嗜みつつさっぱりとした梅の香りの麦焼酎を口に含むことを繰り返していると再び空腹感が忍び寄り〆に冷麺をすすり野菜スープで酔いを覚ますとお会計を済ませた。早めのお開きだが今夜はこれくらいがちょうどいいとお互いタクシーに乗り込み別れを告げた。
お口直しの板ガムを噛みながら運転手に自宅近くの住所を告げる。静かに寝静まった街並みを横目にスマートフォンを眺めているとうずうずと情欲が湧き始めた。咄嗟に「運転手さん!やっぱり目的地変更して」と口走っていた。