6月に入りめっきりと陽も長くなり仕事を終え会社を出てもまだまだ空は明るかった。今年は梅雨時らしい長雨もなく昼間は汗ばむほどの陽気であったが、この時間ともなると頬を撫でる風が心地よかった。夕刻から始まった馴染みの取引先との打ち合わせも滞りなく今後の進捗にお互い自信も生まれたのか、どちらからともなく誘い合い軽く一杯ひっかけることとなった。それならばと私が持ちかけたこのお店は、往来の際に以前から目にはついていたのだが狭い入口で地下という立地もあり歩を進める勇気がなかったのだ。年季の入った暖簾をくぐり、人ひとりやっと通れるぐらいの細い階段をおずおずと中年男性二人で降りて行った。
やはりいくら年齢を重ねようと初めてのお店には若干の緊張が付きまとう。チェーン店ならば日本全国どこもかしこも同じメニューの同じ値段でそういった感情とは無縁であろうが、こういったお店でしか味わえない空気感が好物の私は小さな勇気を奮ってドアを開けた。店内に入るとお好み焼き屋さん独特の油の匂いに空腹感が一気に増した。店員のおばちゃんの小気味好い挨拶と共に、案内された入口近くの小上がりのテーブルに腰掛ける。備え付けられている鉄板は幾年もの年輪を重ねた様子で否が応にも期待が高まる。メニューをざっと眺めホルモン炒め、豚玉、スライストマト、そして生ビール2つと手際よく注文を頼むと出された熱々のおしぼりで顔をゆっくりと拭いた。まるで温泉に浸かったような爽快感にこの時ばかりは化粧をしない男性に生まれたことを感謝する。程なくして運ばれてきたジョッキを手に仕事の成功を祈って小さく乾杯をした。勢いよく一口、二口、口にしながら話題はやはり仕事のことだ。今後の展開や展望を夢物語のような話も含めながら語っていると、すぐにでも実現できそうでついつい熱を帯びた口調に変わってきた。口調と同様にもう充分熱せられたであろう鉄板にはホルモンを一皿、一気に放り込む。食欲を誘うジュウジュウという油のはぜる音と共にテーブル上に湯気が立ち昇る。ぷるぷると震えながら焼けるホルモンからにじみ出る旨味をしんなりとしてきたキャベツが吸い込み程よい黄金色に変化してきた。先ほどからホルモンに夢中で気もそぞろに生返事を繰り返す私に気付いたのか、テーブル上ではホルモンの焼ける音が聞こえるだけだった。もうそろそろか、お互いに目で合図をするとプチプチと小さく跳ねるホルモンをひとつ口に入れた。噛み締めると滲み出る旨味と官能的ですらある食感に無言で食べ続けた。口内に纏わりつく油分をビールで洗い流し空になったジョッキを手に迷わずおかわりを頼んだ。
しばらくして豚玉が運ばれてきたころにはお互いの飲み物も焼酎に代わり、話題も下世話なものに変わっていた。満遍なく塗られた濃厚なソースが豚玉の縁から鉄板に流れ落ち香ばしい匂いが鼻腔と食欲をくすぐる。お好み焼きは私の大好物の一つである。おそらく私のお好み焼きの原体験は自分が食した事ではなく、愛読していた漫画『じゃりん子チエ』によるものではないかと思う。主人公のチエちゃんがよく食べていた『堅気屋』の昔ながらのお好み焼きに憧れていたものだ。そんなことを思い出しながら一口大の格子型にカットされた豚玉を一つ口に入れた。豚肉やキャベツの旨味が存分に染み込んだ小麦粉の甘さをスパイスの効いたソースが包み込み口内で渾然一体となる。鰹節の風味と紅生姜の刺激も伴いながらゆっくりと嚥下すると静かにジョッキに手をやった。鉄板の上から綺麗に何もなくなった時には2人ともすっかり酔いも回り顔に赤みも帯びていた。会計を済ませ地上に出るとまだ空はうっすらと明るさを保っている。顔を見合わせどちらからともなくこんな言葉が口をついた。『もう一軒、行きましょうか。』