寒の入りを迎えすっかり寒さが身に染みる季節になってきた。仕事を終え会社を出た私は何だかまっすぐ帰宅する気にならず、知らず知らずその店に向かっていた。一度、取引先の担当者に連れられて来店して以来、なんだか気に入った私は今夜一人で足を運んでみたのだ。縄暖簾をくぐり店内に入るとコの字型のカウンターの隅にひっそりと腰掛けた。独特な出立の店主と小柄で愛嬌のある奥さんが今宵も笑顔で迎えてくれた。小雨に湿らされたコートを脱ぎ私は迷わず熱燗を頼んだ。巨大なしゃもじで提供された徳利を受け取り手酌でお猪口に注ぐとぐびっと一気に飲み干した。躰の奥深くにぽっと種火が灯るのがわかる。すぐに二杯目を注ぎ飲み干すと芯まで冷え切った躰に燗酒の熱とアルコールがじんわりと広がっていく。ようやく人心地ついた私は電子タバコを咥えながら店内を見渡すと色あせたお品書きが所狭しと貼ってある。どれもこれも魅力的な献立で目移りしてしまい、私は酒を啜りながら肴を決めかねていた。決断を先延ばしにするのはいつもの癖だが、今夜は一択「湯豆腐」だ。白菜、ネギ、鱈の切り身、海老、蒲鉾、そして豆腐。小鍋に綺麗にまとめられたそれらが白い湯気を上げながらカウンターの上に置かれた。まずは豆腐を呑水に取りそっと薬味を載せ口に含むと一気に酒で流し込んだ。大豆の甘みと酒の甘みが幾層にも重なり合いゆっくりと胃の中に沈んでゆく。出汁がしみた白菜の柔らかな旨味とネギのすっきりとした香りを楽しみながら徳利をもう一本頼んだ。鱈の皮が軽く炙ってある。こういった一手間がありがたい。気づけば空になった小鍋を前にゆっくり徳利を傾けていた。今日はこれぐらいにしておこう。会計を済ませ外に出ると雨はすっかり上がっている。せっかく温まった躰が冷えないよう私は足早に家路についた。