北陸に住んでいるとどっしりとした重い曇天にはもう慣れっこだが、お陰でたまの晴天には殊更気持ちが弾んでしまう。今日は朝からこの時期には珍しいとても美しい青空がひろがっていた。天気の良い冬の日の凛と張り詰めた空気を大きく吸い込むと仕事場に向かう足取りもとても軽やかなものになる。今日は調子がよさそうだ。朝から仕事を小気味よく片付けていると気付けば2時間ほど経過していた。電子タバコと缶コーヒー、そしてスマートフォンを手に取ると私は喫煙所に向かった。椅子に腰掛け一服しながら当然のように日課であるサイトのチェックを始めた。
ふと手が止まった。気になっていた女性が2週間振りに出勤していたのだ。独特の文体で綴られた彼女の写メ日記は以前より熱心に愛読していた。彼女の持ち合わせている知性とユーモア、知識と歴史、色気と情念、それらが言葉の端々から溢れ出てくるような魅力的な文章で、その日記は私のお気に入りの一つだった。また時折登場する自虐的な乾いた笑いもとても愛らしく、私はいつも笑みを浮かべながら読んでいた。通常であればすぐさま予約するところではあるのだが、その手前で二の足を踏んでしまう。その理由はただ一つ、年齢だった。還暦というその壁は私の目の前に高くそびえ立ち、超えることはおよそ不可能に思えた。私はもう一本タバコを咥えゆっくりと目を閉じた。「高ければ高い壁の方が登った時、気持ちいいもんな」煙を吐き出すと桜井和寿の言葉に背中を押された私は意を決し電話をかけた。
「とても61歳には見えないですよ、60歳ぐらいかと思いましたよ。」使い古されたこの冗談を言おうかどうか私は逡巡していた。灰皿の置かれたテーブルを挟み私の目の前には一人の妙齢の女性が座っている。年相応の衣服を身に纏った彼女は髪艶や目尻のしわなど年齢を感じさせる部分こそあれど、妙な色気を漂わせていた。色白の肌にはっきりとした瞳、さぞかし若かりし頃には男を惑わせていたであろうことは容易に想像できた。最初の方こそおずおずとこちらを伺う様に話していた彼女だったが、数分もせぬうちに持ち前のサービス精神を発揮し冗談を繰り出してきた。話し振りから関西出身と予想できる彼女は先月から福井に仕事に来ているようだ。私はてっきり若い頃からこの仕事に従事しているものとばっかり思っていたが、話を聞くと始めたのはほんの数ヶ月前、まだまだ駆け出しの風俗嬢であった。入店したての頃の失敗談や変わったお客さんの話など、どんどん飛び出してくる愉快なエピソードに私はすっかり夢中になり、時間を忘れるほどであった。
いささか話し込みすぎたことに気付いた彼女に誘われ浴室に向かった。全裸となった彼女の持つ美しく優雅なバストは白く輝きを帯びている。まるでルノワールの描く裸婦の様なみずみずしい光と慈愛に満ちた姿であった。ベッドの上では柔らかく寄り添ってくる彼女に私はただただ身を任せた。気付けば数十分が経過した頃、左手にローションを握り上下運動する彼女に疲労の色が見え始めていた。一旦それに気付くとどんどん気になり出し私の集中力は方々に散り散りとなっていった。これ以上続けるのは老人虐待ではないのか。そんな思いが頭をよぎった時、部屋中に無機質なアラーム音が響いた。私は笑顔で彼女の動きを制止しゆっくりと起き上がった。不本意ではあるものの何故か十分な満足感に包まれていた私は彼女にそう伝えたが、果てなかった事を気にするそぶりもない様子がまた彼女らしく何だか嬉しくなっていた。
ホテルを出ると澄み切った空に大きな満月が浮かんでいた。空気は痛いほど冷え切っている。「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したのは夏目漱石だったろうか、そんな事を思いながら足早に車に乗り込みエンジンをかけた。「私まだ新人やから、これからブレイクすんねん。」笑いながら話す彼女の顔が思い出された。その時は私もつられて笑うだけで何も言えなかったが、今度彼女に会ったらこう言ってあげようと心に誓った。「貴女はもうすでにブレイクしてますよ」と。どんな状況や環境でも逞しくしたたかに、そして少々のユーモアを持ちながらしなやかに生き抜く彼女はとても輝いていた。そう、今宵の月のように。